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冬の外気は鋭利な刃物の無情さで柔らかな肌を愛撫する。ましてや宵の口ならそれは尚更に。
金属質な喧噪の街。首を竦め足早に行き過ぎる人達の動きは寒さの為か幾分不自然だ。
ぎくしゃくと手足を動かしているその群は、まるで出来損ないの人形達を思わせる。
道端。眠りの淵に佇むような茫とした視線でそれを眺めやり、
光子はマフラに埋めていた小さな顔を傾げて少し微笑んだ。
気分は上々。気力も十分。この分なら獲物は容易く狩れるだろう。
窮屈なスーツを身に纏った無個性な男達が次々に光子に視線を止める。
夜の狭間にもきらきらと美しい燐粉を振り撒く、冷たく澄んだ白桃の頬。
蜘蛛の糸の様に絡み付く視線を敏感に察知し、光子は巧妙にその罠をかわしていった。
同じ顔。同じ声。誰も彼も、男なんて皆大した違いは無い。
でもどうせなら、少しでも大きな獲物を仕留めたい。
両手を口元に寄せ、冷え切った手指にそっと暖かな息を。刹那、白く染まる視界。
世界が光子に再び戻った時、彼女の前には幾つかの見知った顔があった。
……たまには、こういう趣向も面白いかもしれない。駄目で元々だ。
光子の頬に再び笑みが浮かんだ。
闇夜の鴉の瞳を間近に覗き込む。避ける事無くそのまま見返してくる視線。
端正な容貌の中核を成す二つの泉は何処までも深い。
「ねえ、良かったのあのコ達」
指先を軽く触れ合わせ歩みを進めながら光子は後ろを振り返った。
呆然と立ち竦み自分達を眺めている彼らの姿に思わず笑いを漏らす。
一欠片のそれは落下し地面で砕け散った。周りの空気中に拡散し、粒子はそのまま薄れて消える。
「可哀想に。まさかあなたに置いて行かれるとは思っても無かった、って顔よ。
ご主人サマに捨てられた子犬ねまるで」
声が弾む。まさかこれ程すんなりと事が運ぶとは思っていなかったからだ。
「相馬が付いてこいと云った。だから来た」
澄んだ空気に溶け混じる桐山の声。天鵞絨のしなやかさで耳朶を打つ。
一定に保たれたトーンは恣意的なものでは無く、しかしそれでいながら、
人工物であるかの如き無機質な美しさを特徴として兼ね備えている。
「あたしが云ったからって。でも、お友達と遊んでいたのでしょう」
「充に出かけようと誘われたから外出したまでだ。別に俺はどちらでも良かった」
「子犬チャン達を置いてあたしと来るのも、どちらでも良かったから?」
「そうだ。あいつらも特に反対しなかった」
「ばかね」
目を細めて綺麗に微笑む。意識して作る表情。
「あなたが決めたことに、あのコ達が反対なんて出来るわけが無いじゃないの」
「何故だ」
「それが分からないみたいからばかって云ったのよ」
「別にどうとでも。好きに云えば良い」
「可哀想に」
「あいつらがか」
「皆、よ」
喋りながらふと立ち止まる。触れている指を絡ませ、ふわりと握りしめた。
光子のその行動に桐山の歩みも自然に止まる。
人混み。まるで巨大な一つの生物のように蠢く人の群の中、
一つ所に止まろうとする二人は異分子だ。排除されるかのように押されゆき、道の端に追いやられる。
百貨店の壁際。冷たい石に寄り添う形で行き交う人を避けた。
「どうした」
「だって寒いから」
「寒いから」
「甘い物でも食べたい、と思って」
「寒いのと甘い物と何か関係でも有るか」
「カロリィは熱量でしょう。カラダの中に熱を取り込むのよ。暖まる為に」
「飛躍に過ぎる気がするが」
「ええ、そうね。だってこれ、口実だもの」
賑やかな出入口の方に視線を流す。派手なイルミネイションが二月の聖人の日を謳っている、
その煩いまでの光景が視界に侵入した。この国ではとうに意味を失っているというのに、
その日は形骸化したままで未だ無惨な名残を晒している。
空洞化した殻にしがみつき剥離させるのは同じ顔をした働き蟻達。甘い菓子を蜜さながらに運び、運び。
「ほらね。踊って下さい、ってわざわざ音楽を流されたら、そこはやはり乗っておくべきでしょう」
「音楽など流れていない」
「あたしには聞こえるのよ」
静謐な深淵に細い針のような視線を投げかけた。そのまま二、三度大きく瞬く。睫毛の陰影が揺らめいた。
「俺には聞こえない」
「あたしが二人分聞いているわ。だから大丈夫」
「何がどう大丈夫だと」
「甘い物が食べたいな、っていう話」
「会話として話題が分断されていると思わないか」
「だからさっきから口実って云ってる。わざとに決まってるでしょ」
「そんなに食べたいのなら食べれば良い」
「やっぱり。あなたにも出来るって思ってた」
「何のことだ」
「秘密」
光子は羽毛のような笑い声をたてた。そのまま手を離し、その場でくるりと一回転する。
桐山の視線に自らの視線を添わせて、また可笑しそうに笑みを零す。
「チョコレイトが食べたいわ」
「食べれば良い」
「あなたがあたしに買ってくれるんじゃないの」
「何故だ」
「そうして欲しいから。嫌、」
「どちらでも良い」
「それって嫌じゃないって事よね」
「分からない」
「じゃ、今から分かって」
「分からない」
「嘘でもこういう時は、分かったその通りだ、って云うの」
「分かった」
夜の帳は秘やかに全てを抱きしめる。群青の夜天は優しい夜具の暖かさをもってあらゆるものを覆う。
彼らの姿も又例外ではなく、光は陰と共にその腕の中に包み込まれ存在した。
「ねえ、食べましょうよ」
歩みを進めながら光子は早速包みを解き始めた。
可愛らしい包装は見る間に崩され、残骸はあっさりと廃棄される。
風にさらわれ、包装紙は乾いた音と共に人混みに紛れ、消えた。
光子の手には赤いリボンだけが残り、所在無げに揺れている。
「ラッピングって綺麗だけど所詮無駄なのよね」
「なら断れば良かったじゃないか」
「折角してくれるのならしてもらわないと。それにこういうのって無駄だからイイのよ。
どうして役に立たないといけないの」
「……分かった」
「何が」
「装飾は虚飾であるからこそ真価を発揮する、と」
「なあに、それ」
リボンを揺らめかせながら光子はチョコレイトを一つ取り、そのまま桐山の口元へ運んだ。
「口開けて」
「相馬が食べたかったのだろう、」
「一応礼儀として、よ」
桐山は光子を一瞥し、大人しく唇を開いた。
そっと舌の上に乗せるようにして、光子は指先からチョコレイトを離した。
指先の仄かな焦茶色はココアパウダの残滓だ。
そのままもう一つ摘み上げ、自分の口にも含ませる。桃色の舌を覗かせ、指先の色も舐め取った。
「なら今の行動も、お前の装飾の一環ということか」
「大正解」
正解者にはその証を、と嘯きながら、光子は桐山の両手を取り、リボンで結び合わせた。
特に抗う素振りも見せず、桐山はそのまま両手を封じられる事に甘んじた。
「相馬、」
「素敵なリボンを進呈。よく似合うわ」
悪戯めいた光をその瞳に宿しにこやかに微笑む。
「あなた綺麗だから、一度飾ってみたかったの」
「これでは何もできない」
「チョコレイトならあたしが食べさせる」
「それ以外には、」
「全部あたしがしてあげる。あなたがそのリボンを結んでる間は」
「なら好きにしろ」
「するわ」
光子はもう一度微笑んで、冷えた陶器の頬に軽いキスを落とした。
人形めいた二人の行為は、しかし夜に抱かれたまま秘やかに隠されていた。
「あなたの頬、冷たい」
「冬の夜だからな」
「チョコレイトをもう一つ如何、」
「熱を取り込むと暖まる、からか」
「そう。桐山君寒いでしょう」
「寒い」
「あたしも寒い。だからあなたがまず暖まってくれないと困る」
「何故だ」
「だって、暖まる為にはカラダの中に熱を取り込まないと駄目なんだもの」
「分かった」
そして光子はまた一つ、甘い熱を桐山に溶かしこんだ。
◆END◆
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