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辺りは湿り気を帯びた空気に覆われている。太陽は初夏にしては強すぎる光を地上に注ぎ、
じわりと汗の滲んだ身体にそれはとても痛い。
―――――あたしは、平気。こんなの、どうってことないじゃない。
相馬光子は腕を持ち上げ額を拭う。幾筋かの細い髪が湿気で顔や首筋に張り付いている。
暑さでやや潤んだきららかな瞳。軽く開いた唇から微かに漏れる吐息。
天使の如き愛らしい容貌。木々の間から差し込む光に照らされて白く輝く姿はさながら一幅の絵画の様だ。
自分は死なない。死んでなどやらない。光子はそう、強く心に決めている。
自分の価値を自ら高く設定し、その価値を絶対の物としているのだ。それは自分以外、誰もそうしてくれなかったから。
他人に頼ってはいけない。他人に甘えてはいけない。家族なんてくそくらえ。自分以外は皆他人だ。
こちらが大人しくしているとつけ上がるのは誰もが必至。自分よりも弱いと見ると攻撃したがる。
だから光子は強くなろうとした。ただ奪われるだけの弱者の立場から抗うこと誰も適わぬ簒奪者の立場へ。
奪われた物は、奪い返さなければならない。必ず。自分が生きていく為にはそれは最低ラインの条件だ。
持って生まれた容姿が不幸の始まりなら、それを意識して有効的に活用することは最初の第一歩。
最も、この国に生きることには、さしたる意味は無いだろうけれど。
―――――華奢な手に大きな自動拳銃なんか持って木々に潜む可憐なあたし。
まるきり妖精じゃない?アハハ。
近くで物音がした。光子は目を大きく見開く。しなやかな猫の様に気配を殺して音の方へと近づいていく。
千草貴子が、いた。後ろ姿だが間違いようがない。学校内で自分以外にここまで美しいのは貴子だけだ。
鮮血にまみれ大きく喘いでいるのは戦闘が終わったところなのだろうか。
まるきり後ろに注意を払っていない無防備さが可笑しくて、光子は少し笑んだ。
「貴子」
千草貴子は身体を震わせて振り返った。長い艶やかな髪がふわり、と流れる。
鬱蒼とした緑の向こうから、同性でも思わず見とれてしまうような、愛くるしい顔がのぞいていた。
相馬光子だ。学校一の美少女。そして随一の堕天使。
さっと視線を走らせ、貴子は光子を観察する。右手に拳銃。かなり大型だ。制服に多少血の痕が見られるが、
光子の怪我ではなく返り血のようだ。体調も悪くなさそう。対する自分は今まさに害虫を一匹処理したばかり。
精神的にも肉体的にも疲労度はピークだ。全くなんてイイタイミングなの。ちくしょう。
貴子はたった今殺したばかりの新井田和志の死体からアイスピックを抜き出そうと動いた。
しかし脂肪と肉が絡み付いて思うようには抜けない。ただでさえ手は既に様々な体液にまみれべっとりとして不快だというのに、
加えてこの有様とはとんだ災難だ。アイスピックは人間を砕く用じゃないわね、等と下手なジョークにもならない事をふと思う。
その間にも、既に固まりかけている血液は、粘り気を帯びて貴子の手に纏い付いてくる。なんて鬱陶しい。
不意に、先ほど新井田の眼窩を指で抉った際の、
ジェリィのような柔らかい眼球の感触が甦り、貴子は肌を粟立てた。
それが、一瞬の隙となった。
「あなたみたいな女が、あたし、とても好きよ。だからとても―――――」
残念。
咄嗟に駆け出そうとした貴子は、声も立てずに崩れ落ちた。
銃声のした瞬間、貴子の身体は一瞬、空に縫い止められたように見えた。飛び散る赤い滴。貴子の整った涼やかな顔にも、
風になぶられて気儘に揺れる髪にも、すんなりとのびた長い手足にも、それは点々と痕を残した。
光子は血の匂いに酔いしいれたかの様な、どこかしら茫とした眼差しでそれを眺め、
動かない貴子の元へゆっくりと足を進めた。すぐ側に座り込み、頬をそっと両手で挟んで覗き込む。
血液が体外に大量に流れ出し、血の気が引いて蒼ざめた頬。陰を落とす睫毛。美しい少女に紅の化粧はよく似合う、
と光子は満足した。ほぼ真上から見つめているので、
光子の髪が貴子の顔にかかる。それが貴子の感覚を刺激したのが、貴子は瞼を震わせ、目をゆっくり開いた。
既に虫の息だが、それでもまだ生きていたのだ。僅かに息が漏れる。
「あなた、綺麗だったし、あたしよりもいい女だったわ」
光子は貴子の瞳を見返しながら半ば陶然と呟いた。貴子の目は憎悪を湛えて光子を射るように睨み付けていたが、
それすら光子には心地良かった。これまでもうずっと、そのようにまっすぐに相対してくれる人間がいなかったからだ。
光子は奪う側に立つ様になったが、その代償としてだれもが光子の前では自分をさらけ出さなくなった。
皆光子の顔色を窺い、光子の機嫌を損ねて攻撃を受けぬような態度しかとらなかった。
その様な態度をとらないのが、学校で唯一、貴子だったのだ。
毅然とした態度で自分を見つめる貴子を、光子は気に入っていた。容姿の美しさも、その態度の美しさの添え花に過ぎなかった。
勿論、今まではそれを貴子に言うことは絶対になかったし、第一、知らせる気もなかったけれど。……けれど。
絶対的不利に陥っているのに、それでも全く敵意を隠さない貴子の強い視線を受け、光子は内心歓喜した。
全くいい女だ。震える位に、あたしは嬉しい。今。
「とても好きよ」
―――――透き通った綺麗な瞳。あたしは本当にこの眼が好きだ。あたしを見据えるこの眼が愛しい。
だから他の誰にもやらない。欲しい物は、何であっても奪い尽くす。必ず。……だからこれもあたしだけのものだ。
光子は指を伸ばし貴子の瞼に触れる。反射で閉じようとするのを押さえ、触れんばかりに顔を寄せる。
貴子は動けない。少しでも動くと光子の小さな尖った爪が容赦なく眼球を抉るだろう。
つい先ほど自分がしたことが、もう我が身に返ってくるのか。因果は巡る、とは良く言ったもの。
それにどうやら、もう自分の身体は動きそうにもない。
瞼を無理矢理開かされているお陰で、貴子の渇いた瞳は涙腺の活動を促す。薄く眼を覆う涙の膜。
視界は次第にぼやけ、徐々に暗くなっていく。もう何も見えない。
「好きよ」
貴子の息は、もう既に無かった。美しかった顔は壮絶なまでに血に塗れていた。
噎せ返る様に濃厚な血の匂いの中で、光子は貴子を、うっとりと、見つめていた。
◆END◆
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