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早いもので、入学してから今日でちょうど一年だ。
そんなことを少しだけ感慨深く思いながら、貴子は学校の門をくぐった。
新学年。進級した初日位は始業のチャイム間際に教室に入らず、
ゆっくり落ち着いて一日を始めよう、と、今日の登校時間は普段より少し早めにしたのだ。
穏やかな日差しを受け、つややかに天使の輪を浮かべる栗色の髪。
さらさらと揺らめかせつつ、貴子は歩く。
春期休暇の前に登校した時はまだ最下級生だった。
けれども今日からは違う。
不慣れな場所で新入りとして過ごす一年生でもなく、
進学という現実に否が応無く直面させられる三年生でもない、
いわば、一番気儘で気楽な身分の二年生。
この素敵な時期をどの様に過ごすことになるのかはまだ分からないけれど、
出来ることなら居心地良く日々を送りたいものだ。
―――そういえば、クラス替えはどうなったのかしら?
貴子は歩きながら、ふと視線を空に向けた。瞼を二、三度軽く瞬く。
考え事をする時の、それは貴子の癖だった。
自分では全く気づいていなかったその仕草を指摘したのは、彼女の親友の北沢かほるだ。
小学校以来の付き合いのあるかほるは、貴子よりも貴子の事を熟知している。
それは逆の見方でも言える事。かほるの事については、貴子も色々と知っている。
勿論知らない事も多々あるが、お互い、親友に対して秘密を持つことに寛大であり、
他の女の子達の様に“秘密は無しにしましょうね”的な、
女の子の友人関係特有の束縛を好まなかったので、
その事について二人の間で揉めたことは無かった。
だからこそ二人は、長い間親友同士でいられたのだろう。勿論、今現在もそれは継続中で。
―――かほると同じクラスになれていたらとても嬉しいのだけれど。
他の女の子達も、別に嫌いな訳じゃないけど、何だかべたべたした感じなのが鬱陶しいのよね。
今回のクラス替えが終了すると、今後はもうこの学校にいる間、クラス替えは行われない。
だから今回のクラス替えは、以後の生活が快適であり得るか否かに於いて重要なファクタだ。
別段クラスが同じでなくても友人関係というのは成り立つが、中学生というこの時期、
毎日を同じ教室内で過ごし行動を共にする相手とそうでない相手というのは、
親しみの度合いはどうしても変わってしまいがちで。
―――まあ、かほるに関してはそんな心配、無用だわね。
他ならぬ自分が認めた親友だ。人を見る目には自信がある。
視界の隅に鮮やかな色彩が写った。貴子は足を止め、そちらに視線を向ける。
春。季節の恵みをそのまま具現化したような、それは美しい花。
誘うように匂い立つ花弁の瑞々しさは、貴子の顔を僅かに綻ばせた。
普段は時間に余裕が無い為、このような存在に気を払うことなく一直線に教室に向かう貴子だが、
今日は早めの登校のお陰で周囲を観察することが出来る。
一年間通ってもうそれなりに見知ったつもりの校内。けれどまだまだ知らないことも多い。
こんなに綺麗な花が植わっていたのね、と些細な事で機嫌が良くなった。
ふわ、と人の気配がした。反射的に顔を上げる。
黒く長い髪に白い肌を縁取られた、花よりも花の様な愛らしい少女が一人、
貴子を見つめたまま柔らかく微笑んでいた。
誰だろう?貴子は少し訝しむ。
「あなた、千草貴子さんでしょう?陸上部の」
少女はそんな貴子の様子を気にかけるようでも無く、ころころと鈴を振る様な声でそう、云った。
「ええ、そうよ。あなたは誰?」
「あ、ごめんなさいね。あたしは相馬光子。初めまして」
「相馬さん?」
「今教室に行って、クラス替えの張り出し表を見てきたのよ。
あたし達同じクラスなの。B組よ。そうしたら窓からあなたの姿が見えたものだから」
「あら、そうなのね。でもどうしてあたしを知っているの?」
「だって陸上部の千草さん、って有名だもの。綺麗で、足も速くて」
「自分のことはよく分からないわね。まあでも、有り難う」
「だから前から気になっていたの。同じクラスになれて、嬉しいのよ。よろしくね」
「あ、ええ、こちらこそ。よろしくね、相馬さん」
「光子、で良いわ」
「なら私も貴子で良いわよ」
貴子がそう返すと光子はまた、嬉しそうに微笑んだ。
くるりと大きなアーモンドアイ。微笑むと同時に猫の目のように細められる。
相馬って名前、聞いたことある気がするけどいつ聞いたんだっけ?
記憶を探っていると、光子がまた口を開く。
「貴子、何故ここで立ち止まっていたの?」
「花を見ていたのよ。綺麗だったから」
視線をまたそちらに向ける。光子も貴子に誘われるように花を眺めた。
「本当……綺麗ね」
「そうね。思わず時間を忘れそうになったわ」
「あら」
それは本当だった。ほんの一時、足を止めたと思っていたのだが、
実際は自分が思っていたよりも長い時間佇んでいたようだ。
「そんなに気に入ったのね、この花」
「ま、そんな感じね」
「でもそれで遅れるなんて勿体ないわ。こうすれば良かったのに」
「あ……」
光子は手を伸ばし、貴子が止める間もなくあっさりと花を摘み取った。
千切れた茎。今の今まで生命の輝きを誇っていた花は、
光子の手の中で、その最後の美を見せていた。
指先をほんの少し若草色に染め、胸元に手折った花を引き寄せてまた、微笑む。
「ね?こうすればここに足止めなんてされないわ。どこへでも持って行ける」
「折角綺麗に咲いていたのに、いけないわよ、それって」
「どうして?」
光子は不思議そうに首を傾げた。心底分からない、といった風情だ。
「摘み取ったらすぐに枯れてしまうじゃない。ここで咲かせたままの方が、
綺麗なままで長く保たれるじゃないの」
「そんなの」
光子はくす、と笑う。
「枯れたらそれまでよ。捨ててしまえばいいじゃない。
それに、摘んでもそのままでも、いつかはどちらも汚くなるのよ。
それなら綺麗な内に摘み取って、さっさと捨てる方が良くはない?」
貴子は思いだした。そうだ、相馬光子といえば、学校で一、二を争う美少女であり、
そしてその容貌とは裏腹に、素行の方はとても悪く、恐ろしいという噂の女の子だ。
これまであまり興味が無く、噂でしか存在を知らなかったけれど。
目の前にはにこやかに微笑む光子。容姿に自信のある貴子でさえもつい見とれてしまいそうな。
けれどきっとその笑顔の裏には、最高位の悪魔が潜んでいるのだろう。
しかし、そんな噂はどうでも良いわ、と貴子は思った。
誰にも媚びたくない。それは自分の生き方として自分で許せそうもない。
自分で自分を認められなくなること程惨めなことは無い。だから。
「……あなたとあたしって、どうやら気が合いそうにもないみたいね」
「あら、そう?それは残念ね」
残念、と口にしつつも相変わらず笑顔は浮かべたままだ。
花を片手に肩を少し竦め、光子はくすくすと軽やかな笑い声を立てた。
「でもね貴子、あたしはあなたが好きよ。だってずいぶんと綺麗だもの。こんな、花よりもね」
手にした花を貴子に押しつける。貴子は無言で拒否した。花は行き場を無くし地に落ちた。
しかし光子は興味を無くしたように、花にはもう構わず、貴子の横を通り過ぎようとする。
「誇り高い野の草、ね。栄華を極めたどこかの王様よりも自分を飾る術を知っているのだわ。素敵」
「止めて頂戴。何を云っているの?」
貴子は顔をしかめる。しかし光子は構わない。すれ違いざまに囁いた。
「綺麗なものは大好きよ。だから、いつかあなたも手折ってあげる」
そのまま背中を向けて立ち去る光子。
「結構よ。謹んで辞退させて頂くわ」
貴子は後ろ姿まで愛らしいその背中を睨み付けた。
始業のチャイムが鳴った。
貴子は慌てて駆け出した。
◆END◆
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