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どこからか、水音が聞こえた。静かな喧噪とも言うべきその音。この音は雨だろうか。……三村信史は重い瞼を開いた。
今まで意識を失っていた事に、その時、初めて気付く。見覚えの無い天井。ここは屋内か?
定まらぬ焦点のままそれでも辺りを窺おうとする。まるで水中にいるかの様に、ぼんやりと灰紅く揺らぐ視界。
その端に人影が映った。それは翼を持たぬ天使が一人。何処かで確かに見覚えのある、透明な容貌と眼差し。
「気が付いたのね」
そう囁き、彼女は愛らしい顔をそっと寄せた。見る者全ての心を和ませることが出来るかの様に、優しく微笑む。
さらり、と頬を滑る、漆黒の細い髪。少し仰向いた信史の額に触れた。
俺はどうしたんだろう、と信史は焦燥感を覚えた。現在の状況に至るまでの経緯を、何一つ、思い出せないのだ。
手の届きそうな所に何かがある気がするのに、斜がかかった様に朧気で、確実な物が何も無い。
目の前に立つ少女のことも分からない。ただしかし、頭の片隅で警鐘が鳴り響いていた。
今自分の前に佇んでいる彼女は警戒すべき人物だ、とそれは告げていた。本能が、逃げろ、と叫んでいる。
信史は彼女から遠ざかろうとした。が、意に反して信史の身体はその場に座り込んだまま動かず、代わりに全身に鋭い痛みが走った。
自分の姿を改めて省みる。肌の色は殆ど見えず、どこもかしこも赤く塗れていた。
自分は全身に怪我を負っていたのだ。しかもそれは随分と深手の様だ。左耳に奇妙な違和感を感じ、
軋む腕を無理矢理持ち上げ触れてみると、そこには冷たい金属の手触り。これはピアスだろう。併し位置がおかしい。
耳が半ば千切れかけているようだった。先ほどから顔がぬめるのはそのせいか。
視界がほんのり紅に染まっているのもそのせいに違いない。そう思う間も少しずつ流れ出す、止まるところを知らない、血液。
「どうして、逃げようとするの」
自分の行動を読んだのか。そう云って、少女は薄く微笑んだ。そしてそのまま手を伸ばし、信史の頬に触れた。
信史は思わず、僅かに身を竦める。少女の指は、驚くほど白く、冷たい。その指が鮮血に染まる。信史から流れ出したものだ。
少女はそのままゆっくりと手を滑らせ、信史の顎をつい、と持ち上げた。
やや仰向けになった信史の顔。二人の目があった。喉が微かに動く。
「あたしが怖いの」
彼女は信史の瞳を覗き込み、また優しげに微笑んだ。心底優しげに。しかし信史の本能はやはり彼女を避けようとした。
顎を抑えられたままだが、強引に顔を背け視線を逸らす。綺麗な微笑み。この笑みに騙されてはいけない気がする。
美と悪とはある意味同義だ。悪の方こそ魅力があるのだ。天使の方が魅力的なら、どこの人間が悪魔に魅了される?
信史は黙り込んだまま、静かに呼吸を整えた。散々な状態の身体だが、それでもまだ大丈夫だ。自力で呼吸は出来るし、腕も動く。
様子を伺っていれば機会は必ずやってくるはずだ。ぼんやりとした頭で、そう、思いこむ。そして問うた。
「お前、誰」
彼女はくす、と笑みを漏らした。愉しくて堪らない、という様に。彼女には信史の心境が手に取るように分かったのだ。
信史ですら気付いていない不安に気付いたのだ。自己を形成する上での最も重要な基盤となる“記憶”の欠如。
外側の態度で平静を取り繕おうとしても、内面の心情ではその不安を抑え切れていない。動揺を隠し切れていないのだ。
それだからこそ今の様な質問が出る。隠し通そうと思えば決してその様なことを口にしてはいけないのに。
―――――それ以前にあたしには分かるの。他の誰があなたに騙されたとしても、あたしだけは騙されない。何故って。
「あたしはずっと、あなたを見ていたのよ、三村君。本当に綺麗な、硝子細工のようなあなた。
もうずっと、あたしだけのものにしたかったの。このあたしの、相馬光子の所有物に、ね」
光子は微笑む。目の前に信史がいることが最高に嬉しい。例えあと数時間で命を落とすとしても、
今の時間を堪能することが最上だ。血に染まった信史を発見した時、そのままとどめを刺さずに介抱し、
共にいたのも全てその為。この美しいものは、自分のものだ。最後まで。
信史は考えようとした。目の前の相馬光子と名乗る少女の言葉の意味を。しかし考える側から思考は砂のように崩れ、
霧散する。纏まらない断片。掴まえようとしてもすり抜けていく。これは多量の出血のせいだろうか?
過去の記憶どころか、つい先ほどの事までも夢の中の出来事のように、曖昧にぼやけてゆく。
自分はどうしたのだろう。これからどうなるのだろう。いつしか腕も、持ち上げられなくなっているようだ。
今の自分の思考に混じる要素は、ただ、目の前の光子の事のみだ。彼女の微笑みだけが、確固たる「今」なのだから。
雨音に、吐息が混じる。
◆END◆
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