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自己管理は得意だと思っていたのだがそうでも無かったようで、気がつくとすっかり風邪を引き込んでしまっていた。
喉は酷く痛み飲食物を飲み込むのにも一苦労だし、身体は熱を持ち、ぬるま湯に浸かっているかの様に動きが鈍い。
普段とは違い頭もクリアでない。何かを考えようとする側から思考はぼやけ薄れてゆく。しかしそれが妙に心地良い。
明確という概念の無い別の世界に迷い込んだかの錯角を覚え、一人、夜具の上で笑う。
湿気を多く含んだ空気はまるで生物であるかの如く横たわった俺に絡み付き、覆い尽くし、眼窩から鼻腔から口唇から、
容赦無く侵入してくる。息苦しいのはそのせいだろうか。何故か無性に寂しくて、
友人を呼びつけようかと特製の携帯電話を手にしたが、喉をやられてまともに喋ることができない事に気がついて、
そのまま部屋の隅へ放り投げた。
暑い。しかし同時に寒気も収まらず、それならば、と敢えてエアコンは切ったままだ。
生暖く灰暗い室内で一人熱を放ち、うっすらと汗を滲ませながら身体を丸めていると、
次第に身体が溶解し周りの空気と混じり合うような気分に陥る。思考が緩慢な事もその感覚を促す一因だ。
非現実をありのまま受け入れられる最適な状態。今の俺はまさにその状態だろう。音も色も無く、
概念のみの支配する世界へ、意識のみが浮遊し移動した感覚だ。其程不愉快でもない。
こんな気分を味わえるのなら、たまには体調を崩すのも乙かもしれない。
目を閉じて暫しとろとろと微睡む。眠っているのか目覚めているのか、最早自分でもよく分からない状態だ。
時間も空間もどうでも良い。自分の全てが、今はどうでも良い。発熱冷めぬ身体を持て余し、寝返りを一つ打ったその時、
ひやりとした何かが、俺の頬に触れた。しかし目を開けるのも億劫だ。瞼は閉じたまま意識してやっと腕を持ち上げ、
頬に触れている何かを探る。冷たい、それは人間の手の様だった。
掴んだ俺の手の熱が、触れ合っている部分だけ、少し奪われる。
「……誰」
問う声は未だ酷く掠れていて少し嫌になった。しかもその一言を発しただけで、また喉の奥が痛んだ。
二、三度咳き込みつつ返答を待っていると、手の持ち主が微笑む気配。その気配には確かに覚えがある。
「さあ、誰だろうな」
僅かにからかいの色を滲ませた低いその響き。水蜜桃の様に甘さの滴る音程。誰よりも俺が良く知るこの声は。
嫌がる身体を宥めつつ閉じた目を開こうとすると、頬に置かれた手はそのままで、
もう片方の手が俺の両目を柔らかく覆ってきた。お陰で薄く開けた目には何も映らず、眼前にはただ、闇が広がっている。
耳を擽る声と、俺に触れた両の手、そして気配だけが俺に知る事の許された情報だった。しかしそれで十分だ。
目で見ようとしたのは予想を確信に変えたかっただけ。しかし、だとすると、これは夢だろうか?
「……どうして」
朦朧としたまま呟くと、微かな笑い声と共に頬に置かれていた手が滑る様に動いて髪を撫でた。
「お前が、一人で寂しそうにしてたからな」
先程よりも声が近いのは俺の耳元に顔を寄せたからだろう。耳朶を擽る気配と吐息。
それすら冷えており熱を帯びた身体には心地が良い。
無理に目を開けていても何も見えないことに変わりはないので諦めてまた閉じた。夢を見るのに、
目を開けているのも何となく可笑しいだろう。
「夢じゃないよ」
俺の思考を読んだのか、またしても笑いと一緒に声が降ってくる。耳を打つ柔らかい声。
喉を痛めている今の俺にはとても出せない、その声。
「俺の考えてたこと、どうして分かるんだ」
「分かるさ。俺はお前だからな」
くすりと笑んだ気配。ああ、矢張りこれは夢だ。そうでないなら、熱のせいでどうにかしてしまったのだろう。
俺は今境界の上に危うい均衡を保ちながら存在しているのだ。
「自分に優しくして何が楽しいんだか」
「自分を大切に出来ないやつは他人を大切にも出来ないんだよ」
「あ、そ」
そう嘯いたのが最後。その後直ぐに意識は途切れ、俺は眠りに落ちた。
ひどく幸福な気分だった。
◆END◆
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