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聲が聞こえる。
「充」
抑揚に乏しい様でいて、けれども耳触りの良い響きの聲が、沼井は好きだった。
美しく整った薄い唇が自分の名前を音として紡ぎ、発する。
僅かに震える空気。揺らぎはそのまま自分に達し、そして認識に至る。
沼井はその度、秘やかに歓喜するのだ。
色に喩えるならその聲は漆黒。光り輝くもの全てを吸収し滑らかに艶めく色。
白い額から柔らかく後ろに流れ落ちる髪の色も黒。
煙る睫毛の縁に仄かに陰を含んだ眼、冴えた蒼をも帯びた白い眼球の、その瞳も、黒。
だから沼井は無彩色が好きだ。
呼ぶ聲に応える様に、そっと手を差し伸べる。
そのまま頬に触れると、沼井の掌の方へ首を少し、傾けてこちらを見上げた。
驚く程冷たい。触れた手の全体を通して体温が奪われるのが分かる。そんな事が、ただ、訳も無く嬉しい。
温かさが心地良いのか、ふわりと両の瞼を閉じ、両手を持ち上げて沼井の手を上から押さえた。
流水に晒した若木の枝の様な、しなやかな指が絡み付く。そのひやりとした肌の感触に、ほんの少し、肌が粟立った。
やや仰向いた顎は陶器の白さと硬質さを持ち、尖った線を描いて首筋へと続いている。華奢な喉が微かに動く。
「充」
沼井をただ一人、名前で呼ぶ人間。沼井はその存在に傾倒している。
そして自らその事実を既知している。自分が認め、自分が作り上げたと自負する最上の存在。
魅了され手足となり、命ぜられるまま行動するのは沼井の意志だ。
至高の存在。それが眼前にリアルに佇んでいるのだ。一体、誰が抗えようか?
不可視の鎖で緊縛されて従属するのは悪くない。むしろその事は繋がりを確信させる。絆を思わせる。
こちらが繋がれて逃げることが叶わないというのなら、それは向こうにとっても同じことなのだ。
互いに互いを必要としている。それはとても、悪くない。
その様にして、沼井は自らにとっての至上の存在を独占しようとする。
空いていたもう片方の手で絹糸を思わせる髪を撫で、羽毛が舞い落ちるかの様に軽く、軽く、瞼に口づけた。
優しい曲線。閉ざされたその奥に潜む視線を想う。真っ直ぐに、強く、自分を射抜くことを願う。
その視線、その聲、吐息、接触、抱擁。それら向けられる全ては沼井の呼吸を止める。平穏から引き擦り降ろされる。
沼井が望むのはまさにそれだ。何もかも捧げ尽くしてさえなおもまだ物足りない。
「充」
全てを、賭して。そして沼井は充足を得る。
自分の名を呼ぶ聲に、いつでも耳を澄ませる。
「充」
いつか本当に息の根を止められるその日まで。
◆END◆
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